遠望する  開高 健

以下の文章は、僕のタイピング練習、ブラインドタッチの練習に打ち込んだものです。他にもアップされているレイモンド・カーヴァーの作品と同じく、せっかくText形式にしたのだから置いておこうということです。他意はありません。

せっかくの練習なのだから、ブラインドタッチ練習アプリの面白くもない文章を ――それなりに、指使いを考慮しての文章だろうけど―― タイプしているよりも、好きな作家の文章の方が楽しいだろうと初めたことです。



もうこの開高健の『白いページ』を読んだのは何年前のことだろうか。
もちろん氏は存命だったし、元気にアマゾンに行ったり、北米、南米大陸で釣りをしていた頃のことだ。

角川文庫版のその本は色が変わって、ベージュというより飴色に近い色にまで変色している。奥付を見ると発行は昭和56年ということなので、今から35年も前になるか。当時は260円だった。もちろんこれは消費税なんて無かった時代の260円。

当時、それこそ夢中になって読み漁っていた本を文章化するのは楽しいことです。アプリの文章なら途中で投げ出してしまったことだろうけど、好きな作家の文章はミスタッチしながらも楽しい作業です。
パラパラとページを繰り何気に指の停まった一節を書き起こしました。


この『遠望する』は「二年前に新潟県の山奥の銀山湖の村杉小屋で石油ランプで暮していた…」とあるから、実際に書かれたのは昭和45・6年のことだと思う。つまりは今から数えれば、45年ほども前のことになる。

ミュンヘンオリンピックのイスラエル選手団に対する、パレスチナの一派がテロ攻撃を仕掛けた事件の顛末が書かれている。
たしか、その一派はPFLPと言ったと記憶している。
アラファトがPLOの議長になったばかりの頃だったとおぼろげな記憶もある。

文末に
――問題の、完全ではないけれど、他のどの形式によるよりも惨害が少ないと思われる解決が現実を見るには、それより何年でも早ければよいことにこしたことはないのだといっておいたうえで、あと五十年から百年はかかるものと覚悟しておくべきではあるまいか。――

とある氏の予言はある意味的中している。

50年を超える年月が必要だという氏の予言は正しかった。

ただし50年近く経過した現状は、予言よりも悲劇となっている。

イスラエルはアメリカに支えられた軍事力で、拡大路線を突き進み、「入植」という名前の侵略を繰り返し、領土の拡大、ひいてはパレスチナの消滅を進めている。

あれから50年も経つというのに現状は悪くなる一方である。

当時と比べて目立った軍事衝突が少なくなったように見受けられるのは双方が平和的に解決の方向に向かったということではなく、一方的にイスラエルの軍事力でパレスチナ側に抵抗する力が無くなったからだ。

今でも当時と変わることなく、毎日、イスラエル兵の銃で何の罪もないパレスチナ人が殺されている。

開高さん…
アンタ、今のパレスチナとイスラエルを見たらなんと思うかね…

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 遠望する    開高 健

 ある作品の書きだしの一語が決定できなくて私はもう何か月もあがいている。その一語を蒸留することが目下の私の大仕事で、何をどうしていいのやら、見当がつかず、とどのつまり、寝たり起きたりしている。その一語がきまったところで、つぎからつぎへと、どうしていいのか見当のつけようのない大仕事が蔽(おお)いかぶさってくることはほぼわかっているが、とにかく出発の一語が見つからないことにはどうしようもない。この作品は二年前に新潟県の山奥の銀山湖の村杉小屋で石油ランプで暮していたころには題も展開も決定し、顔と姿勢のある部分がかなり肉眼に見えていた作品なのだが、追っていくうちにとつぜん支脈の一つが独立して成長してしまい、それを追うことに昨年を費やしてしまった。その作品は昨年雑誌に発表することができ、今年になって単行本にして刊行することができ、いわばすっかり排泄し終わったのだが、さて苦しかった一仕事がすんで、それを産んでくれた母胎を完成させようと、いまもどってみると、展開、顔、姿勢、何もかも朦朧としているのである。部屋にこもって、ただ寝たり起きたり、人にも会わず、酒場にもでかけず、パーティーにもでない。ときどき手をのばしてテレビのスイッチをひねる。あまりの阿呆くささにすぐ切る。けれど一時間か二時間たつと、また手をのばしてひねり、また切ってしまう。運動不足と形而上的集中の必然の結果として頬や腹がだぶだぶと肥厚してくる。そうやって私が書きだしの一語の滴下を待ちつつ毎日毎日、ただごろっちゃらとしているところを知らない人が目撃したならば、すぐさまアフリカの川で泥浴びにうっとりと眼を細めている河馬が連想されるであろう。けれど、いささか観察ということに素養のある人ならば、河馬には何がしかの敬意をおぼえないではいられないはずである。なぜなら、もしゴリラの顔に漂う一種の高貴さを【慓悍(ひょうかん)なる憂鬱】と呼ぶとするならば、河馬の顔に目撃されるそれは【偉大なる怠惰(たいだ)】と呼ばれていいものだからである。怠惰はそのような相貌(そうぼう)を持つことがあると、おおいにして精緻なる自然は暗示してくれているのである。

 九月五日。そういう怠惰のなかで手をのばしてなにげなくダイヤルをひねってみたら、オリンピック中継をやっていて、とつぜん臨時ニュースとして、イスラエル選手団の宿舎がパレスチナ・アラブのテロリスト群によって占拠されたと告げている。翌日、九月六日、になってまたダイアルをひねってみると、イスラエル選手団とテロリストたちの要請によってミュンヘン空港までバスではこばれ、そこで西ドイツの警察と乱射の応酬があり、その結果として人質は全員死亡、テロリストたちも三人をのこして死亡だという。私はアフリカの河馬として寝床によこたわったまま、日頃はほとんど読んだことのない新聞を側近に持ってこさせて、別種の具体的形而上的集中にふける。しばらくすると電話があちらこちらの新聞社や週刊誌からかかってくるが、イスラエルには私は二度いってるけれど村松剛くんのほうがもっとうちこんでるから、といって、みんないんぎんに、けれど誠意のこもった声音で御辞退する。九月七日の一日も河馬のようにごろんところがったまますごし、ああであろうか、こうであろうかと、朦朧とした情報群をまえにして朦朧とさまよい歩く。新聞を見ると、平和なオリンピックが血でめちゃくちゃになったとか、なぜ人質全員がみなごろしになるような結果を招くような措置にでたのかとか、さまざなな意見が百花斉放している。そのうちで、ブランデージ会長とイスラエル政府が別箇だがそれぞれ口をそろえてテロリストたちを国外に出さないようにと西ドイツ政府に要請したという報道が私の眼をひく。その際、両者が、西ドイツ政府に、テロリストたちを、生きたまま止めるようにといったのか、殺してでも止めるようにといったのか、生死を問わず止めるようにといったのか。そのあたりのことはわからない。

 九月八日、私が河馬のように昼寝してるところへ『サンデー毎日』の早瀬君が家へじかにやってきて、何かいえ、何か書けという。私は六九年にビアフラのあとでイスラエルへいったが、帰国してからは純文学一途という方針で暮らしているから何もホットなことはいえない、浦松剛君のところへいったほうがいいでしょうというが、早瀬君は頑としてヒキガエルのように応接三点セットにうずくまってひきさがろうとしない。やむなく意見を口述し。それを筆記してもらう。日本の赤軍派の若者がテルアヴィヴのロッド空港で乱射事件をひきおこしたあとなのだからこのオリンピックでもイスラエル選手団に何かあるんじゃないかと考えて当然なのじゃないか、だからイスラエル選手団は警備を厳重にしてくれと西独警察にたのんだらしいが警察側は甘かったらしいじゃないか、しかし、ひとたび決死を覚悟したテロリストというものは全体主義国風の戒厳令を布(し)くのでもないかぎり浸透を防圧できるものではない、西独警察の無謀なみなごろし作戦が非難されてるようであるが、すべての誘拐事件にはどれくらい慎重に解決を計ってもどこかできっと一か八かの【賭け】が入ってくることは防げないのであって……というようなことを話すうち、今後、つまり明日にでも起こるかもしれない反応を、つぎにようにおおまかに私は要約した。

一、イスラエルはきっと報復行動にでる。
二、その結果、パレスチナ・アラブ・ゲリラの根拠地がたたかれる。その結果、ゲリラも死ぬが、女や子供たちも巻きぞえで殺されることになる。この女や子供たちは食うや食わずの状態にある。
三、その惨禍のあげくパレスチナ・アラブ過激派の団結よりは、むしろ分裂が深まるのじゃないか。
四、地上軍の侵攻はあるかもしれず、ないかもしれない。けれど、二つのうちどちらだときかれれば、ないと賭ける。
五、あってもヒット・エンド・ランで終わるだろう。
六、国際事件にはなるまい。

 翌九月九日、イスラエル空軍がレバノンとシリアのパレスチナ・アラブ過激派の根拠地を空爆し、ベイルート発AFP電によると、子供七人を含む十五人が死亡、二十四人が負傷、二人が行方不明とある。私は早瀬君の口述筆記を読んだあと毎日新聞社はいき、午後五時までに八枚という約束でテーブルにすわる。それから一週間近く私の【予言】は十割まで的中していた。しかし、九月十六日にイスラエル軍がタンクや装甲車を先頭に歩兵多数とともにレバノンへ侵攻したというニューズを読み、四の、地上軍の侵攻はないと賭ける、という私の賭けがもろくも崩壊したことを知らされる。
 ところが、その翌日の九月十七日には引揚げたというニューズを知らされる。五の、地上軍の侵攻はあってもヒット・エンド・ランで終わる、という予測が的中したわけである。あれやこれやを総合してみると、この原稿を書いてる九月十九日現在、私の予測のうち九割が的中し、一割があたらなかったということになる。

 (ただし、ゲリラ本拠地の粉砕という作戦方式からして、レバノンは一応終ったとしてもシリアについては現在、どうなるか、わからない。レバノンとおなじようにイスラエル地上軍が侵攻するのか、どうか。私は何も知らないし、予測もたてられない。ただいえることは、それがあっても私はニューズに接して何もおどろかないし、おそらく同地域において【全面戦争】が発生することはあるまいと踏んでいる)

 予測が九割的中したからといって私が得意になっているわけではない。それは戦乱国をつぎからつぎへと巡歴しているうちに私の身についた防衛反応なのである。三年間眠りこんでいたそれがふいに流血でヤスリをかけられ、垢を落とされた結果なのである。戦乱国または準戦乱国を巡歴していると、朝起きて新聞を読み、または貧民街のチャプスイ屋へいってラーメンやおかゆをすするうちに眼にし、耳にする、すべての小さなニューズ、大きなニューズで、その日の行動の計画をたてなければならないし、【本能】とか、【第六感】に賭けてうごかなければならないこともしばしばである。そのため、一つのニューズを読んで、その事件の背景にあるそれまでの経過、当事者双方のおかれている現状、指導者たちの思考法、戦術、戦略、一つの反応に一つの反応を返すか、三つの反応を一つにまとめて返すか、じつにさまざまなことを一杯のおかゆ、一杯のミルク・コーヒーをすすってるうちに総合して考え、すすり終わったあとで朦朧のうちにその日の行動計画を決定しなければならない。そになかにはしばしばじつにおびただしい、しばしば大げさで幼稚と思える【覚悟】も含まれてくるのである。それが不当であったか、適切であったかは、すべてあとになってから、無事に生きのびられたあとで【結果】を眺める一段高いところにある心情の判断するところである。
 そして血を流して抗争しあうしかない二者がいるときには、ひとつの事件にたいする反応を予測するとなると、それはとどのつまり、人間性というこの広大で朦朧としたものをその場、その場にのぞんでどう察しをつけるかということにつきる。それらのフィーリングからの憶測であった。

 アラブ× イスラエルの反応はこの二十五年間にどの反応がどの結果になり、どの攻撃がどの報復になったか、誰もたやすくその場で指摘できないくらいこんがらかってしまった。アレをやったからコレをやり、コレをやったからアレをやるというのが、あまりに相互の【反応】がおびただしくなりすぎて、独立的に一つのことが指摘できないのである。
 たとえば九月十六日のレバノンへのイスラエル軍の侵攻はミュンヘン事件への報復であるとするのが第三者たちの批評であるが、たとえミュンヘン事件がなくても出撃の口実はいくらでもあるというのがイスラエル将兵たちの素直な感想ではないだろうか。同様のことをパレスチナ・アラブ・ゲリラの心情についてもいうことができるのではないだろうか。つまりこれは双方にとって【オペレイション・ティット・フォー・タット(しっぺ返し作戦)】ということになっているのではあるまいか。たまたまミュンヘン事件は外部に報道されたけれど、いちいち日本に報道されることのないヤッタ・ヤラレタが相互にとって、日々、週々、月々、あまりに多すぎるのが、現場での現実である。
 イスラエル政府が西独側にテロリストたちを国外にださないようにと要請したのが事実するならば、イスラエルは従来の方針を変えなかったのである。これまで同政府は同政府の手の及ぶ範囲内で発生したこの種の外圧については断固とした反応に出ることを政策としてきた。もしここでゲリラたちに有利になるような態度をとれば今後ますます同種の誘拐や虐殺事件が発生するであろう。ゲリラたちは出撃にあたっていくら死を覚悟しているものの、もしやり方によっては自分たちの宣伝もでき、獲物も獲得でき、しかもひょっとしたら一命をとりとめることがあるかもしれないとなれば、それは彼らにとって【勝利】であり、イスラエルにとっての【妥協】であると考えるであろうから、ますます後継者がふえ、事件が頻発することであろう。ここでテロリストたちを断固と防圧したところで今後のテロを防圧することにはなるまいが、妥協するよりは粉砕したほうがいくらかでもテロリストたちの姿勢を弱めることになりはしまいかと、イスラエル政府は考え、すでにテロリストたちの手におちてしまった人質はあきらめるしかないと涙を呑んで切りすてる行動にでたのではあるまいかと推いされるのである。もしそうであるとするなら、第三者がその態度を非情だとか、冷酷だとか、いくら批評したってはじまらない。そもそもイスラエル国民としてその領域内に生きることを決心するそのこと自体が、戦場に生きることを選ぶ行為でもあるのだから。
 テロは一人でもできるし、十人でもできる。それは【最小のロスによる最大の効果を】に基づいた一つの政治運動の過程の暴力行為である。それはその政治運動がデモ、宣言、示威、起爆剤を必要とする段階でとられる行為である。けれどパレスチナ・アラブ過激派のこれまでにとってきたハイジャックや、空港乱射や、オリンピック村における行動などは、けっしてイスラエル領内に住む同族のアラブ人や、周辺のアラブ諸国民に延焼、引火することはなかった。彼らのあげたのろしにつづいて蜂起や反乱などの連鎖反応が起こったためしはまったくなかったし、むしろ、結果としては、彼らを厄介者扱いにするアラブ諸国政府の弾圧を買い、そして、おなじゲリラのなかでの四分五裂、七花八裂の分裂を深める役割ばかり果たしてきたように見えるのである。ハイジャックや、空港での乱射や、オリンピック村でのゲリラたちのこれまでの行動は結果からすると、この世にパレスチナ・アラブ人という流亡のしかも断固たる決意を固めた人間がいることを世界に宣伝することでは成功したかもしれないが、そのプラスはことごとくマイナスにはたらく結果しか生みださなかったのではあるまいかと考える。それは派手で、目立って、果敢だけれど、いつも花火でしかなかったのである。これまでずっと、何をやっても花火で終ってきたし、おそらく今後もそうでしかあるまいと私は予感する。
 いわばこの人たちの解放運動なり革命運動なりは、いつまでたっても宣言やテロだけの段階で足踏みするしかなく、やればやるだけそれでとどまるしかないかのようなのである。そしてむざむざ巻きぞえを食って砂しかほかに食べるものがあるまいと思われる状態の女たちや子供たちが惨殺されていく。

 おそらく【パレスチナ連合】というゆるやかなイスラエル人とパレスチナ・アラブ人との何らかの形式による連合体制がおこなわれて、問題の、完全ではないけれど、他のどの形式によるよりも惨害が少ないと思われる解決が現実を見るには、それより何年でも早ければよいことにこしたことはないのだといっておいたうえで、あと五十年から百年はかかるものと覚悟しておくべきではあるまいか。

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